単なる「復刻」ではなく、
長くつきあうことのできる、普遍性のある提案
1960年代、カリモク60の家具が生まれたのは、 「流行」や「マーケティング」というものが生まれるずっと前、 純粋につくり手がものづくりをしていた時代。
そんなわたしたちの原点とも言うべきスタンダードな商品を作り続けること。 わたしたちらしさをずっと意識していくこと。 それが「カリモク60」です。
愛知県のほぼ中心、知多郡東浦町にあるカリモクの工場は、国内随一の規模を有した家具工場。 とはいえ、システマチックな最新機械加工と共に、人の手が多くの工程を担っています。
機械化の時代において、なんとも不釣り合いな話のように聞こえます。 しかし木という天然の素材を生かすには、人の手による作業が不可欠ということ。 この作り方によってはじめて、高い品質と値頃感、つくり手のぬくもりをもった、わたしたちらしい製品が実現できるのです。
始まりは1940年、初代社長の加藤正平が江戸時代から代々続く家業の木材屋を継ぎ、愛知県刈谷市に木工所を創業しました。 紡績機の木工部品や輸送用の木函など、それぞれ時代に沿った製品を作ってはいましたが、 下請けとしての仕事では内容もその量もバラバラですから、決して安定した経営とはいきませんでした。
そんな中、ミシンテーブルの製作を請け負うことになります。 それはこれまでにはない、高い技術を必要とするもの。 新しい取り組みは困難の連続でしたが、安定して製造ができるようになり、 1960年代に入るとステレオキャビネットやピアノ・オルガン部品、ソファの木枠など、 より精密な木部品を手がけることが多くなりました。
これらの取り組みは、カリモクの礎となる木の知識、高い加工技術とともに、 ものづくりへの自信・品質への責任として、ひとりひとりの中に培われていったのです。 このころには、木を使った製品ではどこにも負けないものづくりができる体制が整いました。
アメリカ向け輸出家具の部品の製造をするようになったのをきっかけとして、 これまで製作を通して得た手ごたえは、ひとつの思いへと導かれました。
「今こそ培ってきた知識、技術、経験を生かし、自分たちのブランドだと胸を張って言えるようなものづくりをしたい。 日本人による、日本の住宅に合う家具を作ろう。」
2年後に東京オリンピックをひかえ、日本中が好景気にわいていた1962年、カリモクは国内向けの洋家具の生産を開始します。
おりしも日本の生活空間は大きく変わろうとしていました。 畳敷きの和室から、居間やキッチンのある洋風の間取りへ‒‒。 生活のかたちが変われば、そこに住む人の生活も、家具のスタイルも変わります。 ダイニングテーブルやソファ、リビングテーブルのある暮らしに、多くの人たちが憧れを抱きました。
まずは、輸出家具の中からもっともシンプルなデザインを選び、日本での住空間に合わせて改良を重ねました。 そうして生まれたのが、カリモク自社ブランド第一号となるKチェアでした。 コンパクトながらゆったりとした座りごこち、組み立て式の簡易性。 そこには、これまでのカリモクの技術が、しっかりとそして確実に反映されていました。 続いてリビングテーブル、カフェチェア、ロビーチェア、オットマン……、 今も販売されているこれらの家具が、生まれたのです。
カリモク60の家具には、歴史に裏打ちされた技術と、ものづくりに誠実に向かい合う姿勢、 そして携わる者たちの深く熱い思いが、しっかりと受け継がれています。
単なる「復刻」ではなく、長くつきあうことのできる、普遍性のある提案。 そこには、いつの時代も変わらない心地良さがあります。
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